私はいわゆる「いい子」だった。
5歳年下の妹が生まれた後から、喜んで母の手伝いをしていた。
幼稚園年長の時には、おしめ交換もできていた。母が昼寝をする時には、1時間でも2時間でも妹を見守っていた。
“大好きなお母さん”の役に立てるのが、何より嬉しかったのだ。
小学校に入ると毎朝、玄関の掃き掃除と靴磨きをしていた。
割と早い段階で鍵っ子になり、学校から帰ると、洗濯物を取り込み、きれいに畳む。その後、掃除機をかけ、鍋で米を炊き、夕食のおかず一品を作る。その後、宿題をして、学校の準備を済ませ、母の帰りを待っていた。
これらは全て、母から命じられていた私の仕事だった。だけど私は、苦痛に感じることなく寧ろ喜んでやっていた。
それをすると「お母さんが喜んでくれる」からだ。
自慢の娘、と嬉しそうに周囲に言いふらしてくれるから嬉しかった。
大好きな母から「ありがとう」と笑顔で言われることは、子どもにとって何よりの喜びであり、心の栄養なのだ。
この時の私は自己肯定感が高かったと思う。自身に満ち溢れていた。
しかしそれはその後、みるみると崩れ落ちていった。
「いい子」であることが「当たり前」になってしまい、母は私のミスを許せなくなってきたのだ。
小2の時、一度だけどうしても玄関の掃き掃除が嫌な日があった。その前の日にゴキブリが出たのだ。怖くて仕方がなかった私は、「やった」と嘘をついてしまった。すると母は、鬼の形相でズカズカと近づいてきて、玄関の箒で私の顔や体を何度も叩き始めた。「嘘つけ!靴の位置が変わってないじゃないか!!」と。私は「ごめんなさい」と泣きながら謝るが、母の怒りは収まらない。箒を振り回し、玄関の外まで私を追いやった。そして直後にランドセルが飛んできた。最悪な朝の光景だが、もっと最悪なのは、そのあとだ。そこには、いつも一緒に登校している同級生2人が立っていた。ちょうど声をかけにきてくれたタイミングだったのだ。申し訳なさそうに「灯ちゃん…大丈夫…?」と言われた。私は恥ずかしくて「ごはんをこぼしたから怒られちゃった~。」と笑って答えた。玄関掃除をしていることをなんとなく隠したい自分がいた。
他にも、炊きあがった白米の仕上がりが悪いと怒られたり、きゅうりの輪切りが厚いと「面倒くさがったでしょ!」とサラダをキッチンに投げられたこともあった。洗濯物の畳み方がいまいちだと、最初からやり直し。母が帰宅するまでに全てを終わらせないといけないため、宿題の漢字を丁寧にやっている時間はない。当然、雑な仕上がりになる。すると「汚い!」と言って定規でビンタ。消しゴムで全部消されて、またまたやり直し。相手は小学校低学年。あまりにも理不尽だ。
しかしながら当時の私は100%自分が悪いと信じて疑わなかった。どうして自分はダメなんだろう…どうして毎日怒られるんだろう…と、完璧にできない自分を責めていた。仕事から疲れて帰ってくる母を喜ばせたい…!ありがとうと頭を撫でてほしい!その一心で、日々を乗り越えていた。
自己肯定感なんてものは簡単に消え去り、母に対する承認欲求へと変化するのだ。