“毒親”という言葉

毒親

今では定着している、この言葉。正直、私はあまり好きではない。

なぜなら、自分の中にも毒というおぞましいものが宿っているように感じるから。

そして、何かうまくいかないことがあると、全てを毒のせいにしてしまいそうだからだ。

自分自身を省みず、周囲を大切にせず、他責的な人間になるのは御免だ。

だから私はこの言葉をむやみに乱用せず、時に立ち止まって考えることが必要だと考えている。

毒親という言葉を知るときまで、自分の親がそれであるとは思わなかった。

子供時代は(友達の家とはちょっと違うな…?)せいぜいその程度。

成人すると(なぜうちの親は話が通じないのか…?)もやもやが増える。

そして自身が親となり、子育て開始後に初めて気付いた。これが毒親ってやつか…!と。

スーザン・フォワード氏の著書『毒になる親』は、一瞬で読み切った。衝撃的だった。しばらく心臓がバクバクしていた気がする。

過去の「?」たちが、次々と線で結ばれたような感覚を今でも覚えている。

何でもかんでも、毒親、毒親と口にするのはいただけないが、確かに毒親は存在する。

そして毒親に比例して“毒親育ち”として苦しむ人たちも大勢いるのだ。

その“毒親育ち”の人たちに伝えたい。

毒親の存在やトラウマに縛られて身動きできないよりも、毒親育ちというハンディキャップと共に、自分を進化させていくほうが最終的に幸せではなかろうか。

自分は毒親になんかなりたくない。だからこの強烈な言葉は、自分の戒めにもなっている。

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