はじめに…
これは20年前のエピソード。私は約2年で治療を終え、その後は一般企業や病院でトータル15年勤務しながら子育てしている。現在進行形で何らかの治療をしている人は、どうか決して焦らないでほしい。治療にかかる時間は人それぞれ。それでも10年後・20年後は今より心身ともに穏やかに進化していることを信じて、小さくてもいいから心に“ともしび”を照らし続けてほしい。
入院の際、出生から現在までの生育歴を聞き取られた。医師の診察前にソーシャルワーカーが行うインテーク面接だ。
今でこそ、自分も日常業務として聞き取る側にいるが、当時の自分は(なぜそんなことまで聞くのだろう…)と不思議だった。生まれ育った家庭環境について、こんなに詳しく、時系列に沿ってアウトプットするのは初めてだ。自分の過去に冷静に向き合ったような時間だった。
精神疾患には、養育者との関係性や家庭環境のエピソード、身内の精神科疾患歴の有無などに、その後の人格形成や発症のヒントが隠れていることがある。初診の際は、根掘り葉掘り聞かれるが、無理のない範囲で答えてほしい。もし話している途中で辛くなるようであれば、その気持ちも含めて、医療者に伝えてほしい。
その後、主治医となる医師の診察が始まった。主治医は私の母親に着目しているのが分かった。母親についてかなり掘り下げられたのだ。答えていくうちにどんどん苦しくなっていき、結果的に母の面会制限がかけられた。病状に良くない影響を与えるという判断だ。
希死念慮が強いということもあり、医療保護入院という強制入院になった。
とはいえ、急に私と連絡が取れなくなると混乱を招くため、入院の事実は伝えるものの面会はできない旨、母へは夫より端的に電話で伝えてもらった。
しかし、ここで冷静になれないのが私の母だ。新幹線に飛び乗り、病院まで来てしまった。当時、院内でどのように申し送りがなされていたのかは不明だが、面会制限がかけられていたにも関わらず、病室の前まで看護師が連れてきた。ドアが少し開き「灯…」と声が聞こえる。思わず布団を被って背を向けた。看護師が来て「せっかく来てくださったんだから」と言う。私は「会いたくないです…」と泣いていた。看護師は、申し訳なさそうに母を帰した。
病状はさらに悪化した。自暴自棄になった。他の患者に勧められて、たばこを吸ってみたりした。生まれて初めての喫煙だ。とはいえ、特段感じるものはなかった。かわいいピンクの箱欲しさに1箱買ってみたものの、中身は周りに配ってすぐやめた。人生なんてどうでも良くなった。
どうしてこんな時まで私の気持ちを尊重してくれないんだ。と悲しみと怒りでいっぱいだった。きっと、健全な親子関係であれば、同じ行動をとられたとしても怒りの感情は湧かないのかもしれない。
それから3か月弱、どのような入院生活を送り、退院したのか記憶がない。入院時の主治医の話も、退院前カンファレンスの内容も、全く覚えていない。毎日11時30分に「まんま~」と言いながら病棟入口で食事を待つおじさんの声だけが、なぜか記憶に残っている。
退院は、一般的には喜ばしいことだが、精神科の場合は必ずしもそうではない。当時の自分も、漠然とした不安しかなかった。
そして退院後はまさに、人生のどん底だったのである。